納豆、なかなか、はじめられない、、二度目って一度目より怖いって本当だ!いまだ53日でストップしてます。目標は710日なんです。遥か彼方。30歳までには、ね。
今日はすげー雨。熱帯低気圧やるなー。ゼミ中、窓の外は強風と豪雨で白くなっていた!
今日の能は「花がたみ」(変換できず、、)。狂女物。岩波の本では「狂女物の典型」といわれているらしい、が、あまり感動できず。狂女はやっぱり魅力的だ。「狂う」という言葉が相変わらずというより、前に比べたら余計にわからなくなってきたが、魅力的なのは変わらない。
ゼミ中、先生が黒板に二つの歌を書いた。とても面白い歌。
・「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」 *一期(イチゴ)
→一体何をしようというのか そんなくそ真面目な顔をして 一生は夢である ただ狂え。
・「くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現顔して」 *現顔(ウツツガオ)
→くそ真面目な顔をして悩んでいるような人は見ていられない 夢のまた夢のようなこの世で 現顔して。
「現」は現実。お金を稼いで食べて。
「現」と呼称される世界に対する世界の呼称が「夢」。
「現」の人の状態に対するのが「狂」う人。
「狂う」人は、現在の意味での「狂人」とは意味が全く違う。能において「狂女」は最も趣き深い人間だ。「狂女」は失ったもの(自分の子どもや夫の場合が多い)を捜し求め一人世をさまよい歩いている。武士が刀を持って戦っていた時代に女性が一人でさまよい歩くことの困難さは少し想像すればわかる。「狂女」が現れると人々は、それ狂女だと集まってきて、彼女が狂うさまを見物する。そして見終わった後で必ず「こんなに優しい狂女はいない。」という様なことを言って感動する。
人は狂女が狂うさまに何を見るのだろう。今日はそれをずっと考えていた。
人は人が狂う姿に「夢」を見るのだろうか。それとも「現」だろうか。
パフォーマンスを見ていて感動したことが、はっきり覚えているだけで2度ある。
見ていたものは現実というよりは夢のようだった。
彼がそこで行う行為そのものは紛れもない現実だけど見る人の目に映る映像は現実世界とはかけ離れている行動だから夢のほうが近いだろう。
感じたもの、感動してしまったものは、すごく現実味のある、何かだった。「」で表せない、言葉にできない、強い強いものが彼から発せられて自分の胸にぶつかってジワーっときてもう感動してしまった。
(このときの気持ちを表すのに「感動」っていう言葉が正しいかどうか知らないけど、この言葉しか僕は知らない。いや、多分このときの気持ちが本当の「感動」で正しいのだろう。今はもう「感動」という言葉だけに限ったことじゃないが、そういう言葉が簡単に使われすぎてる。先週の「愛と平和と美楽」展のときもそれは感じた。)
感じるものがすごく現実味のあるもの(感情だろうか)なら、みているのは多分「夢」じゃない。と今は思う。
しかし「狂う」とか「果てまで行く」とか「エクスタシー」とか、そこら辺、よくわからないままだ。「シュミレーションする」(加藤好弘)とか「離見の見」(世阿弥)とか。どれもグリーンにはのってるけどホールまでの距離はバラバラって感じ。もしかしたらグリーンも違うかも。うーむ。。。
パーこに「変」って言われるのは現顔してるからかも。
今日はまだ書くぞ。
ゼミの後、先週に引き続き(先週はホテルマン&天麩羅工場凝視体験まさしさん)、今日もゼミの先輩と皆で飲んだ。今日の先輩は木村さんとさかりさん。今日はさかりさんとは話してない。木村さんは、多分俺の4つ上で、卒業後は日産に就職し数ヶ月の内に本社勤務の通知を受けたが、それにもかかわらず会社を辞め、彫金の師を見つけ弟子入りして約2年の修業を経て独立し、今は他分野の作家とともに神奈川に工房を持ちそこで制作と技術指導を行っているそうだ。町田の店で商品を置いてもらったりして、ギリギリだが会社勤めをしていた頃よりはずっと良い生活をしていると言っていた。
職人っていいなと思った。
技術を受け継ぎ、そしてそれをまた誰かに伝える。それって聞いただけで感動することだよね。
職人は純粋だ。と、外から見ているぶんには思うけれど。
俺はしばらくはパーティーピーポーでいたいな。工房も持ちたいけど持ったら週一回はパーティー会場にしたいな。
いろいろやりたいぞー。周りのやつら結構いろいろやってるからなー。
卒論はますますピンチだこりゃー。ま、いいでしょー♪
今日はすげー雨。熱帯低気圧やるなー。ゼミ中、窓の外は強風と豪雨で白くなっていた!
今日の能は「花がたみ」(変換できず、、)。狂女物。岩波の本では「狂女物の典型」といわれているらしい、が、あまり感動できず。狂女はやっぱり魅力的だ。「狂う」という言葉が相変わらずというより、前に比べたら余計にわからなくなってきたが、魅力的なのは変わらない。
ゼミ中、先生が黒板に二つの歌を書いた。とても面白い歌。
・「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」 *一期(イチゴ)
→一体何をしようというのか そんなくそ真面目な顔をして 一生は夢である ただ狂え。
・「くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現顔して」 *現顔(ウツツガオ)
→くそ真面目な顔をして悩んでいるような人は見ていられない 夢のまた夢のようなこの世で 現顔して。
「現」は現実。お金を稼いで食べて。
「現」と呼称される世界に対する世界の呼称が「夢」。
「現」の人の状態に対するのが「狂」う人。
「狂う」人は、現在の意味での「狂人」とは意味が全く違う。能において「狂女」は最も趣き深い人間だ。「狂女」は失ったもの(自分の子どもや夫の場合が多い)を捜し求め一人世をさまよい歩いている。武士が刀を持って戦っていた時代に女性が一人でさまよい歩くことの困難さは少し想像すればわかる。「狂女」が現れると人々は、それ狂女だと集まってきて、彼女が狂うさまを見物する。そして見終わった後で必ず「こんなに優しい狂女はいない。」という様なことを言って感動する。
人は狂女が狂うさまに何を見るのだろう。今日はそれをずっと考えていた。
人は人が狂う姿に「夢」を見るのだろうか。それとも「現」だろうか。
パフォーマンスを見ていて感動したことが、はっきり覚えているだけで2度ある。
見ていたものは現実というよりは夢のようだった。
彼がそこで行う行為そのものは紛れもない現実だけど見る人の目に映る映像は現実世界とはかけ離れている行動だから夢のほうが近いだろう。
感じたもの、感動してしまったものは、すごく現実味のある、何かだった。「」で表せない、言葉にできない、強い強いものが彼から発せられて自分の胸にぶつかってジワーっときてもう感動してしまった。
(このときの気持ちを表すのに「感動」っていう言葉が正しいかどうか知らないけど、この言葉しか僕は知らない。いや、多分このときの気持ちが本当の「感動」で正しいのだろう。今はもう「感動」という言葉だけに限ったことじゃないが、そういう言葉が簡単に使われすぎてる。先週の「愛と平和と美楽」展のときもそれは感じた。)
感じるものがすごく現実味のあるもの(感情だろうか)なら、みているのは多分「夢」じゃない。と今は思う。
しかし「狂う」とか「果てまで行く」とか「エクスタシー」とか、そこら辺、よくわからないままだ。「シュミレーションする」(加藤好弘)とか「離見の見」(世阿弥)とか。どれもグリーンにはのってるけどホールまでの距離はバラバラって感じ。もしかしたらグリーンも違うかも。うーむ。。。
パーこに「変」って言われるのは現顔してるからかも。
今日はまだ書くぞ。
ゼミの後、先週に引き続き(先週はホテルマン&天麩羅工場凝視体験まさしさん)、今日もゼミの先輩と皆で飲んだ。今日の先輩は木村さんとさかりさん。今日はさかりさんとは話してない。木村さんは、多分俺の4つ上で、卒業後は日産に就職し数ヶ月の内に本社勤務の通知を受けたが、それにもかかわらず会社を辞め、彫金の師を見つけ弟子入りして約2年の修業を経て独立し、今は他分野の作家とともに神奈川に工房を持ちそこで制作と技術指導を行っているそうだ。町田の店で商品を置いてもらったりして、ギリギリだが会社勤めをしていた頃よりはずっと良い生活をしていると言っていた。
職人っていいなと思った。
技術を受け継ぎ、そしてそれをまた誰かに伝える。それって聞いただけで感動することだよね。
職人は純粋だ。と、外から見ているぶんには思うけれど。
俺はしばらくはパーティーピーポーでいたいな。工房も持ちたいけど持ったら週一回はパーティー会場にしたいな。
いろいろやりたいぞー。周りのやつら結構いろいろやってるからなー。
卒論はますますピンチだこりゃー。ま、いいでしょー♪