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今朝日の出を眺めました。今年の最後の日の出ということになります。僕の部屋から太陽が見えだしたのがだいたい7時くらい、7時を2〜3分過ぎたくらいからでした。それからだいたい5分間くらいの間がおそらく日の出と言われる現象が起こっていた時間だったと思います。それから後は太陽がゆっくり昇りながらどんどん眩しくなってきて見ていられなくなりました。
明日の朝もまた、たぶん7時ちょっと過ぎくらいに、まだオレンジ色くらいの太陽が朝方の澄んだ空と黒っぽい町並みの境目からチラチラ見えだして、少しの間、初日の出と呼ばれるものになって、それからまた普通の太陽になって、正月の景色を照らしていくことでしょう。

毎年、1月1日の元日の日の出だけが初日の出と呼ばれます。僕もそう呼ぶし、たいていいつも初日の出を拝みます。そうしてやっぱりなんとなく特別な日の出だと感じます。僕はいつもそれになんとなく不思議な感じを覚えます。もちろんこれは早急に解決しなくてはいけない難題にぶつかったときの不安や焦りを伴った感じではなくて、どちらかといえば寓話的な、大人のための童話みたいな、そういう雰囲気とともにある不思議さです。1年365日、毎日日のでは起こるのにどうして1月1日の日の出だけ特別なのでしょう。自分がもしそうとは感じなければそういうことを思うこともないでしょう。僕がそれを不思議に思うのは僕自身も1月1日の初日の出をそれ以外の日の日の出とくらべて何か特別なものに感じるからです。つまり僕は、なぜ1月1日の日の出を初日の出と呼ぶのかという「初日の出の由来」に疑問を持ちそれを知りたいのではなくて、「日の出は毎日起こっていると知っている自分が、にもかかわらず1月1日の日の出だけを特別なものに感じてしまうのは何故か」ということを不思議に思っているのです。
なんとなく、これには「自然」と「科学」という二つの相反する存在と、その間に位置する「人間」という存在が作用しているように思います。
まず、日の出というのは自然の出来事です。夜が明けて朝になろうとするときに、だんだん明るくなってきた空の一番下の地平線や稜線やまだ暗い町並みビル群との境目から、暖かくやさしいオレンジ色太陽がその頭をちらちらと覗かせてきて、景色をどんどん明るくしていきながらゆっくりと空に昇っていく、それを日の出と呼びます。
それが起こるのは、僕らが地球という惑星に住んでいて、地球は太陽という莫大なエネルギーを持った星を中心に形成された太陽系という星の集まりを形成している星の一つであり、地球は太陽に対して軸をだいたい垂直に保ったまま1日に1度の周期で自分自身を回転させながら1年に1度の周期で太陽の周りを回っているからです。地球上の自分の住んでいる場所が太陽のほうに向いている時間はその光を受けて昼間になり、そうでないときは夜になります。夜から昼へ移り変わるときの、太陽が地平線から昇ってくるときのわずかな時間が日の出の時間になります。
また「日の出」という呼称については、まずもちろん日本語であり、日本語のわかる人にしか通じない言葉です。日本語がわかっても日の出という言葉をしらなければやはりだめです。太陽が昇ってくるのを見て、それを日の出だと思わなければそれは日の出ではなくなり、例えば「Sunny side up」になったりします。だから、日の出が起こるのは日の出という言葉を知っている人がいる場所に限られます。ただ、場所というのは普通はカラオケボックスのようにきっちり仕切られてはいなくて、その空間は限りなく非限定的な要素で成り立っているので、今のようなグローバル化の進んだ世界状況においては日の出が起こる場所は決して少なくはないと思います。
ではそうして毎日起こる日の出の中で、初日の出という一つの特別な日の出が起こるはどうしてでしょうか。
そのためにもっとも大事なのは暦です。暦を信じることではじめて僕たちは今日が2009年12月31日で明日が2010年1月1日であることを認識することが可能になります。何かを信じる、というのはおそらく人間にとって決して簡単なことではないように思います。しかし暦というものに対する僕たちの信じ方は並大抵のことではゆるがないかなり確固たるものだと思います。そうさせている理由のひとつに誕生日というのがあると思います。僕たちは生まれた瞬間から暦の中に位置づけられます。いつどこで生まれたかというのはそのまま一生その人の証明書として付随されます。そもそも「生命の誕生」という観点からみれば実際の「誕生日」というのはそれよりも10ヶ月くらい前ということになります。命はその時点からすでに死へ向かって生き始めているはずです。暦というのは、人間が自然に対して科学をもって付き合っていることのひとつのいい例だと思います。おそらく最初に暦という考え方を思いついた人間は、自然の中で生活するうちに自分の周りで繰り返されるある周期的な運動に気が付いて、そういうことを思いついたのでしょう。繰り返す朝と昼というのは一番わかりやすいことだったはずです。そこから太陽、月などの星の動きから、天体観測が始まり、そういった中で数の概念から数学が発達し、観測と分析と計算によって世の中の森羅万象のうちのいくつかの出来事についてはその変化は普遍的で周期的でありその未来を読むことが可能だと気づき、暦というものを作ったのでしょう。それが今現在まで受け継がれていてしかもますます確固たるものになってきているのは、やはりそれが支配というものに役立ったからでしょう。それともう一つ、おそらくこちらが最たる理由ですが、人間がいまだに死という壁を越えられないということがあるでしょう。むしろ死というものがこれだけはずっと変わらずに絶対的なものとして人間の存在に含まれているからこそ、暦は人間を支配しえるのでしょう。もしも人間が死というものを自らの存在から切り離したなら、暦が今ほど人間に対して影響力を持つかは疑問です。すくなくとも時間の概念は大きく揺らぐことでしょう。ただ、暦というのは数学的な要素だけでなく、人間の文化によっても多くを支えられているので、その面でやはりある程度の影響力を持ち続けること、あるいはもしかしたら、状況に応じた形態へとその仕組みを変化させることは予想できます。
時間、歴史、世界、国、そういうあたりまえにあるものに対して、僕たちはあまり信じすぎないほうがいいと思います。もはや、信じている、ということすら自覚することは困難になっているはずです。だから信じないことも困難であって、せめて、信じないことを信じてみる、という程度にしかできないのかもしれないけれど、でも僕はそういうことに思いや考えをめぐらせるときにそこにはまだファンタジーがあるように思います。「2009年が終わる、それは一度過ぎたらもう2度と戻ってはこない。大晦日の今夜はそんな貴重な感動的な瞬間を堪能しよう」というのは非常にわかりやすいファンタジーです。僕はそういうものもあって当然だしなかったらそれなりにつまらないかもしれないと思いますが、もっともっとささいなファンタジーに目を向けていきたいと思います。確かに大きなものになればなるほどそれが無くなる瞬間にはそれだけ大きなエネルギーが発散されて感動もひとしおですが、もっともっと小さい物事の明滅にも気が付くと、たぶんそこには隠れた名店みたいな、素敵な物語が隠れているように思います。今年はけっこうそういうものに出会えたような気がします。来年もそっちの方向でいきたいです、いまのところ。
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野本

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野本翔平

埼玉県行田市生まれ、在住。中央小学校→忍中学校→熊谷西高校(普通科)→専修大学文学部哲学科卒。2005年にパフォーマンスアートを知り、自身もパフォーマンスアーティストとして活動を開始。国内外で作品発表。2008年から地元行田市を拠点に活動。近所のパン屋さんで毎月1回アートイベントを開催し、現在も継続中。地元で活動する中でもっと行政と深く関わる必要性を感じ、2011年4月の行田市議会議員選挙に立候補するも次点で落選。2012年から地元の若者たちとともに地域の芸術文化振興を目指す市民団体「SEED」(行田市市民公益活動登録団体)を結成。現在も精力的に活動中。
<所属団体など>
アーティストグループbug-depayse(2007-)、埼玉県立近代美術館主宰SMF(SaitamaMuseForum)(2008-)、ささやかな政治活動をする会(2011-)、熊谷ヤバイラジオ(2011-)、SEED(2012-)。

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