知人のドキュメンタリー映画と、友人の自殺のことなど
太田信吾監督『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(山形国際ドキュメンタリー映画祭2013「アジア千波万波」部門正式出品作品)の配給宣伝のためのクラウドファンディング(ネット募金)が行われています。下記URLからアクセスできます。ぜひご協力いただけたらと思います。
https://motion-gallery.net/projects/watashitachini
上に貼った動画は太田信吾監督の新作ドキュメンタリー映画『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の予告編です。その下のリンクはこの映画の全角劇場公開に向けてのクラウドファンディングのサイトです。
太田監督とは2010年に知り合いました。きっかけは秋葉原のクラブで開催されていたダンス、演劇などのイベントです。このイベントに僕はbug-depayseのメンバーとして出演し、太田さんもまた自身のユニットで出演していました。ここでは後々まで続く出会いがいくつかあって、太田さんのユニットの相方で音楽家の富永さんにはこの年の夏にbug-depayseの作品『煙』に楽曲を提供してもらったり、当時太田さんと早稲田大学の同級生だった山本さんにも同じ作品に出演してもらったりしました。そして現在でも頻繁にお会いし、SEEDの企画のアフタートークにも出演していただいている早稲田大学哲学科教授の鹿島さんもこのイベントで知り合ったのでした。鹿島さんは太田さん山本さんのゼミの先生でたまたま教え子たちの発表を観に来ていたのでした。
今回の映画の主人公であり、2010年の終わり頃に自殺した増田さんとは2010年5月のパン屋会で出演していただき、そのときに一度だけ会いました。増田さんが出演することになった経緯は、上述の通り僕は秋葉原のイベントで太田さんたちと知り合い、その後、太田さんと富永さんが昔からの仲間だという増田さんと一緒にパン屋会へ来てくれたのです。増田さんは富永さんにとって音楽の師匠のような存在だと富永さんは言っていました。その時のパン屋会では増田さんは弾き語りをやりました。たしかコピーを1曲とオリジナルを4曲だったと思います。コピーしたのはくるりの「ばらの花」で、その時だけ富永さんがキーボードを弾いていました。
当時の増田さんの印象は、正直に言って、富永さんが師匠とあがめるような実力のある人とは思いませんでした。非常に神経質で、繊細で、脆いメンタルの持ち主のような印象を持っていました。僕が増田さんの自殺を知ったのは増田さんが自殺をしてからしばらく経ってからでした。たしか2011年の中盤以降、秋頃のことだったような気がします。増田さんの自殺を聞いたときに、僕はあまり驚きませんでした。そんなことが起こっても大して不思議ではないと思わせる雰囲気が2010年5月の増田さんには感じられたからです。
自殺は僕にとって身近な出来事でした。そうでなければ増田さんの自殺に僕はもっと大きな驚きとショックを感じていたはずです。
僕が大学を卒業する年の春、2007年の3月に、高校の時の同級生が一人自殺をしました。これが僕にとっては初めての身近な人の自殺でした。身近、といっても親友という程近しくはありません。高校3年のときに同じクラスになり、お互い同じグループのメンバーの1人でした。全部で10人の男だけのグループです。このグループはいまだに継続されていて、毎年夏と年越しにはみんなで旅行に行きます。もちろんなかなか全員はそろいませんが、毎回4〜5人は集まっています。僕は年越しの旅行に参加することが多くなっています。
自殺の原因ははっきりとはわかっていません。もしかしたら親族にはわかっているのかもしれません。遺書はなかったそうです。彼の自殺は当時の僕にはかなりショックな出来事でした。まさか自分の身近な人が自殺するなんて想像もしていなかったのです。冷静に考えてみればその頃も日本は大量の自殺者を生み出していました。たしかここ2年間くらいは年間の自殺者数が減少傾向にあり3万人を割ってきているという報道がされていたと思いますが、2007年は年々増加している真最中でした。タイミング的にも、大学を卒業してこれから社会に入っていく丁度そのときでした。聞いたところによれば自殺した彼は取得単位がたらず、留年が決まっていたのだそうです。自殺する少し前の時期には家にあまり帰らずに、自分の車に布団を積み込んでどこかに出かけたまま車の中で夜を明かすことが多かったそうです。そういったことを考えてみれば、彼が自殺に追い込まれていったことも決して不自然なことではありません。僕は自殺というものが自分の身の回りには起こりえないものだと勝手に思い込んでいたのです。思い込んでいることにも気付いてはいませんでした。ほとんど何も自殺ということについて具体的に考えたことはありませんでした。だから大きなショックを受けましたが、社会の様相を冷静に俯瞰すれば、いつ身近な人が自殺してもおかしくない状況だったのです。僕たちが生きている社会はそういう社会だったのです。そのことに僕は気付いていなかったのです。
彼の自殺は僕に大きな影響を与えました。彼の死によって僕はこの社会をしっかりと疑うようになりました。彼が死ぬ以前から世の中に対して撲然とした疑いの念は抱いていました。それは2005年の春に1ヶ月間アメリカのイリノイ大学へ行ったことや、同年の夏から本格的にパフォーマンスアートにのめり込んでいったことなどを経ながらだんだんと醸成されていったものでした。それが友人の自殺という出来事によって撲然とした疑惑からはっきりとした疑いに変わりました。現在の社会は身近な友人のうちの1人くらいは自殺で失う社会なのです。僕の身の回りの何人かに聞いてみましたが、結構本当にそうなのです。 僕は大学卒業後、就職はしませんでした。彼の自殺だけが理由ではありませんが、多大な影響は受けています。卒業後すぐに就職はしなかったという自分の選択について僕はまちがっていなかったと考えています。まあ、間違っているとか正しいとか、どうでもいいことですけれど、とりあえず僕は彼に感謝しています。彼の自殺がなければ僕は社会に対する疑いを明確に持つことは出来ませんでした。フリーターという立場で20代を過ごすことを自分の中で正当化することも出来なかったでしょう。中途半端なところで諦めて、妥協して、自分にとってかなり悲惨な時間を過ごしていたかもしれません。
もちろん彼の自殺は彼の家族や当時の恋人にとっては一生正当化し得ないのかもしれません。ただし僕は彼にとっては他人なのです。彼は自分の自殺に際しておそらく一遍たりとも僕に何らかの力になってほしいとは思っていなかったでしょう。だから彼の自殺に対して僕が出来たことは何一つとして存在しなかったのです。だから僕は彼の自殺のことなんて忘れ去ってしまっても何の問題もないのです。誰かに迷惑をかけることもあり得ません。結局は僕自身がどう捉えるかという問題なのです。自殺をした彼と、彼の自殺という出来事に遭遇した僕とは、お互いの生涯の一時の共通によって一見とても近しい存在のように見えますが、実はそれぞれの人生はほとんど干渉し合っていないのです。彼の自殺を忘れないようにしようとするのも、彼のお墓に定期的に行くようにするのも、彼の死と自分の人生を関連づけようとするのも、すべては僕自身の意思によることなのです。自分の選好の結果なのです。
そこまで客観視した上で、僕は彼の死を、彼の自殺という出来事を自分の心の中に掛けながら行きていこうと思っています。人の死とどう向き合い、どう捉えるかということは、なんとなく、自分の死とどう向き合いどう捉えるかということと繋がっているように感じます。僕は生きることについて考えるということはほとんどしていないように思います。死ぬことについては暇さえあれば考えているような気がします。それは死ぬことが怖いせいだと思います。死ぬことは怖いです。まだまだやりたいことがたくさんある。たくさんありすぎる。別に僕が死んでももっと優秀な誰かがやってくれることなんでしょうが、でもできれば自分の能力や経験を活かしてより良い形で実現させたい、あるいは実現する方向へ進めたいと思います。まあこれは欲望ですね要するに。全然死にたくなんかありませんよ。
と、ここまで書いてきて、最後にちょっと加筆したいことがあります。
直前の文章で「まだまだ死にたくない」ということを書きました。それは本当です。ただし、最近ちょっとこの感覚にも変化を感じてきているのです。今現在僕は29歳9ヶ月の歳月を生きています。もうちょっとで30周年記念です。(大いに祝うつもりです。)中学生のときに考え始めてしまった死生観にとらわれてずーーっと今まで来ていますが、ここ1年くらいでちょっとそれに変化が起きてきているのを感じているのです。28歳くらいまではとにかく死にたくなかったのです。もう、とにもかくにも、です。死ぬなんて最低最悪。生きてなんぼ。そう思っていました。が、しかし、最近ちょっと変わってきていて、もちろん死にたいとは全然思わないし、死にそうになったら自分の全身全霊を賭けて生にしがみつきますが、でもそれでも死んじゃったらまあしょうがないか、と思うようになってきました。これは自分自身でも結構びっくりです。年齢の成せる偉業だなと思います。あんなに否定していた死を、本当にわずかずつですが受け入れはじめている。「この死の恐怖はどんな大作家にもどんな名作にもどうすることもできない」なんてヒロイックでセンチメントなことを思っていたのに、なんとまあ、自身の心境の変化であっさりと崩れ始めました。よく出来ているな、DNA。
もうすぐ三十路。今後の10年間は具体的に事を起こし実現していく期間にしたい。まあもちろん明日突然死んじゃうかもしれないけどね。生きる事が許される限り、やれるだけやっていきますよ。
太田信吾監督『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(山形国際ドキュメンタリー映画祭2013「アジア千波万波」部門正式出品作品)の配給宣伝のためのクラウドファンディング(ネット募金)が行われています。下記URLからアクセスできます。ぜひご協力いただけたらと思います。
https://motion-gallery.net/projects/watashitachini
上に貼った動画は太田信吾監督の新作ドキュメンタリー映画『わたしたちに許された特別な時間の終わり』の予告編です。その下のリンクはこの映画の全角劇場公開に向けてのクラウドファンディングのサイトです。
太田監督とは2010年に知り合いました。きっかけは秋葉原のクラブで開催されていたダンス、演劇などのイベントです。このイベントに僕はbug-depayseのメンバーとして出演し、太田さんもまた自身のユニットで出演していました。ここでは後々まで続く出会いがいくつかあって、太田さんのユニットの相方で音楽家の富永さんにはこの年の夏にbug-depayseの作品『煙』に楽曲を提供してもらったり、当時太田さんと早稲田大学の同級生だった山本さんにも同じ作品に出演してもらったりしました。そして現在でも頻繁にお会いし、SEEDの企画のアフタートークにも出演していただいている早稲田大学哲学科教授の鹿島さんもこのイベントで知り合ったのでした。鹿島さんは太田さん山本さんのゼミの先生でたまたま教え子たちの発表を観に来ていたのでした。
今回の映画の主人公であり、2010年の終わり頃に自殺した増田さんとは2010年5月のパン屋会で出演していただき、そのときに一度だけ会いました。増田さんが出演することになった経緯は、上述の通り僕は秋葉原のイベントで太田さんたちと知り合い、その後、太田さんと富永さんが昔からの仲間だという増田さんと一緒にパン屋会へ来てくれたのです。増田さんは富永さんにとって音楽の師匠のような存在だと富永さんは言っていました。その時のパン屋会では増田さんは弾き語りをやりました。たしかコピーを1曲とオリジナルを4曲だったと思います。コピーしたのはくるりの「ばらの花」で、その時だけ富永さんがキーボードを弾いていました。
当時の増田さんの印象は、正直に言って、富永さんが師匠とあがめるような実力のある人とは思いませんでした。非常に神経質で、繊細で、脆いメンタルの持ち主のような印象を持っていました。僕が増田さんの自殺を知ったのは増田さんが自殺をしてからしばらく経ってからでした。たしか2011年の中盤以降、秋頃のことだったような気がします。増田さんの自殺を聞いたときに、僕はあまり驚きませんでした。そんなことが起こっても大して不思議ではないと思わせる雰囲気が2010年5月の増田さんには感じられたからです。
自殺は僕にとって身近な出来事でした。そうでなければ増田さんの自殺に僕はもっと大きな驚きとショックを感じていたはずです。
僕が大学を卒業する年の春、2007年の3月に、高校の時の同級生が一人自殺をしました。これが僕にとっては初めての身近な人の自殺でした。身近、といっても親友という程近しくはありません。高校3年のときに同じクラスになり、お互い同じグループのメンバーの1人でした。全部で10人の男だけのグループです。このグループはいまだに継続されていて、毎年夏と年越しにはみんなで旅行に行きます。もちろんなかなか全員はそろいませんが、毎回4〜5人は集まっています。僕は年越しの旅行に参加することが多くなっています。
自殺の原因ははっきりとはわかっていません。もしかしたら親族にはわかっているのかもしれません。遺書はなかったそうです。彼の自殺は当時の僕にはかなりショックな出来事でした。まさか自分の身近な人が自殺するなんて想像もしていなかったのです。冷静に考えてみればその頃も日本は大量の自殺者を生み出していました。たしかここ2年間くらいは年間の自殺者数が減少傾向にあり3万人を割ってきているという報道がされていたと思いますが、2007年は年々増加している真最中でした。タイミング的にも、大学を卒業してこれから社会に入っていく丁度そのときでした。聞いたところによれば自殺した彼は取得単位がたらず、留年が決まっていたのだそうです。自殺する少し前の時期には家にあまり帰らずに、自分の車に布団を積み込んでどこかに出かけたまま車の中で夜を明かすことが多かったそうです。そういったことを考えてみれば、彼が自殺に追い込まれていったことも決して不自然なことではありません。僕は自殺というものが自分の身の回りには起こりえないものだと勝手に思い込んでいたのです。思い込んでいることにも気付いてはいませんでした。ほとんど何も自殺ということについて具体的に考えたことはありませんでした。だから大きなショックを受けましたが、社会の様相を冷静に俯瞰すれば、いつ身近な人が自殺してもおかしくない状況だったのです。僕たちが生きている社会はそういう社会だったのです。そのことに僕は気付いていなかったのです。
彼の自殺は僕に大きな影響を与えました。彼の死によって僕はこの社会をしっかりと疑うようになりました。彼が死ぬ以前から世の中に対して撲然とした疑いの念は抱いていました。それは2005年の春に1ヶ月間アメリカのイリノイ大学へ行ったことや、同年の夏から本格的にパフォーマンスアートにのめり込んでいったことなどを経ながらだんだんと醸成されていったものでした。それが友人の自殺という出来事によって撲然とした疑惑からはっきりとした疑いに変わりました。現在の社会は身近な友人のうちの1人くらいは自殺で失う社会なのです。僕の身の回りの何人かに聞いてみましたが、結構本当にそうなのです。 僕は大学卒業後、就職はしませんでした。彼の自殺だけが理由ではありませんが、多大な影響は受けています。卒業後すぐに就職はしなかったという自分の選択について僕はまちがっていなかったと考えています。まあ、間違っているとか正しいとか、どうでもいいことですけれど、とりあえず僕は彼に感謝しています。彼の自殺がなければ僕は社会に対する疑いを明確に持つことは出来ませんでした。フリーターという立場で20代を過ごすことを自分の中で正当化することも出来なかったでしょう。中途半端なところで諦めて、妥協して、自分にとってかなり悲惨な時間を過ごしていたかもしれません。
もちろん彼の自殺は彼の家族や当時の恋人にとっては一生正当化し得ないのかもしれません。ただし僕は彼にとっては他人なのです。彼は自分の自殺に際しておそらく一遍たりとも僕に何らかの力になってほしいとは思っていなかったでしょう。だから彼の自殺に対して僕が出来たことは何一つとして存在しなかったのです。だから僕は彼の自殺のことなんて忘れ去ってしまっても何の問題もないのです。誰かに迷惑をかけることもあり得ません。結局は僕自身がどう捉えるかという問題なのです。自殺をした彼と、彼の自殺という出来事に遭遇した僕とは、お互いの生涯の一時の共通によって一見とても近しい存在のように見えますが、実はそれぞれの人生はほとんど干渉し合っていないのです。彼の自殺を忘れないようにしようとするのも、彼のお墓に定期的に行くようにするのも、彼の死と自分の人生を関連づけようとするのも、すべては僕自身の意思によることなのです。自分の選好の結果なのです。
そこまで客観視した上で、僕は彼の死を、彼の自殺という出来事を自分の心の中に掛けながら行きていこうと思っています。人の死とどう向き合い、どう捉えるかということは、なんとなく、自分の死とどう向き合いどう捉えるかということと繋がっているように感じます。僕は生きることについて考えるということはほとんどしていないように思います。死ぬことについては暇さえあれば考えているような気がします。それは死ぬことが怖いせいだと思います。死ぬことは怖いです。まだまだやりたいことがたくさんある。たくさんありすぎる。別に僕が死んでももっと優秀な誰かがやってくれることなんでしょうが、でもできれば自分の能力や経験を活かしてより良い形で実現させたい、あるいは実現する方向へ進めたいと思います。まあこれは欲望ですね要するに。全然死にたくなんかありませんよ。
と、ここまで書いてきて、最後にちょっと加筆したいことがあります。
直前の文章で「まだまだ死にたくない」ということを書きました。それは本当です。ただし、最近ちょっとこの感覚にも変化を感じてきているのです。今現在僕は29歳9ヶ月の歳月を生きています。もうちょっとで30周年記念です。(大いに祝うつもりです。)中学生のときに考え始めてしまった死生観にとらわれてずーーっと今まで来ていますが、ここ1年くらいでちょっとそれに変化が起きてきているのを感じているのです。28歳くらいまではとにかく死にたくなかったのです。もう、とにもかくにも、です。死ぬなんて最低最悪。生きてなんぼ。そう思っていました。が、しかし、最近ちょっと変わってきていて、もちろん死にたいとは全然思わないし、死にそうになったら自分の全身全霊を賭けて生にしがみつきますが、でもそれでも死んじゃったらまあしょうがないか、と思うようになってきました。これは自分自身でも結構びっくりです。年齢の成せる偉業だなと思います。あんなに否定していた死を、本当にわずかずつですが受け入れはじめている。「この死の恐怖はどんな大作家にもどんな名作にもどうすることもできない」なんてヒロイックでセンチメントなことを思っていたのに、なんとまあ、自身の心境の変化であっさりと崩れ始めました。よく出来ているな、DNA。
もうすぐ三十路。今後の10年間は具体的に事を起こし実現していく期間にしたい。まあもちろん明日突然死んじゃうかもしれないけどね。生きる事が許される限り、やれるだけやっていきますよ。