足元に湯たんぽ、膝上には猫たんぽ。
さっきTwitterにつぶやいた自分の言葉です。
割れながら良い感じの一節だと思う。足元に湯たんぽ、膝上には猫たんぽ。うん。
一昨日からめちゃくちゃ寒い。その前の2、3日間は逆に結構あったかくて、あれ、なんだかもう春の匂いがするぞ、と思ってちょっと春のあのメランコリックな気持ちがじわっとしたりもしたんだけど、そんなことを考えた自分がアホに思えるくらいに冷え込んでいるここ数日間です。
猫も寒いんでしょうか、さっき、というかもう1時間くらい前からずっと、机に向かって椅子に座っている僕の腿の上で丸くなっています。
この丸くなってるやつはジョンと命名された猫です。名付け親は妹。猫の名前はいつも妹が決めています。前に飼っていたミャーコもそうでした。
今野本家にはジョンともう一匹、合わせて2匹の猫が飼われています。もう一匹はジョンの兄弟猫で、ヨーコと命名されています。ジョンは雄猫、ヨーコは雌猫。言わずもがなですが、ジョンレノンとオノヨーコにちなんでいます。
よく世間で猫派か犬派かという話がありますが、僕は99%猫派です。犬は飼ったことがないので、飼ったら好きになれるのかもしれないという可能性を1%残しています。
猫の何が好きかというと、何よりもまず、あの自分勝手なところです。これはきっと犬派の人からすると、だから猫は好きじゃない、ということの大きな理由だと思いますけど。猫は勝手です。好き勝手に生きているように見えます。まあ、うちの猫たちは飼われているわけで、その時点で「好き勝手」ではないのかもしれませんが。でも、まあ、それでもその限られた環境の中で出来る限り好き勝手に生きているように見えます。好きなだけ寝て、好きなだけ食べて、好きなだけ甘えて、好きなだけ外を眺めて、好きなだけ散歩をして、好きなだけ狩りをして。そんなふうに見えます。
そんなふうに見えるのは、僕がそんなふうに見たいからなんでしょう。きっと違ったふうに見たいと思えば違ったふうに見えるんだと思います。
僕は猫に対して詩的なイメージを投影しているんです。もう結構昔の話になりますが、僕がまだパフォーマンスアートをバリバリやっていた頃(2006年頃)、あるパフォーマンスアーティストが「猫は詩的な動物だ」と言っているのを耳にしたんです。猫と詩。僕にとってはその組み合わせがとても腑に落ちました。猫の行動にはなんとなく行間があるように見えるんです。犬の行動にはそれはあまり感じられないのです。犬は詩的というよりも、感情的あるいは動的という言葉で修飾したほうが合っている感じがします。猫は詩的、あるいは静的という感じがします。
社会的にも犬と猫の位置づけは対照的です。犬はペットという立場だけでなく、警察犬や盲導犬、災害救助犬、そして様々な媒体のモデルなどとしての社会的地位を与えられています。対して猫の方はペットという立場以外には、モデルとしての立場くらいしかありません。やっぱりなんとなく犬のほうがしっかりした対場を得ている感じがします。
それもまあ当然かもしれません。犬は努力してきたのです。頑張って人間の言うことを聴いて、理解して、それに応えてきたのです。その涙ぐましい努力のすえに今の地位を獲得したのです。
猫はどうでしょうか。あいつらはまったくそういう努力をしてきませんでした。戦前戦中の混乱期も、戦後の高度経済成長の中でも、日本がバブルに浮かれている間も、デフレに苦しむ間も、ただただのんべんだらりと過ごしてきたのだと思います。
まあ、本当のところはわかりませんけれども。言葉が通じるわけではないし。ただ僕の目にはそんなふうに見えるし、そんなふうに想像することが出来るのです。そしてそういう猫が僕は好きなんです。
ジョンはもうどこかに行っちゃいました。どこかで何かやってるんでしょう。ただ寝てるのかな。
さっきTwitterにつぶやいた自分の言葉です。
割れながら良い感じの一節だと思う。足元に湯たんぽ、膝上には猫たんぽ。うん。
一昨日からめちゃくちゃ寒い。その前の2、3日間は逆に結構あったかくて、あれ、なんだかもう春の匂いがするぞ、と思ってちょっと春のあのメランコリックな気持ちがじわっとしたりもしたんだけど、そんなことを考えた自分がアホに思えるくらいに冷え込んでいるここ数日間です。
猫も寒いんでしょうか、さっき、というかもう1時間くらい前からずっと、机に向かって椅子に座っている僕の腿の上で丸くなっています。
この丸くなってるやつはジョンと命名された猫です。名付け親は妹。猫の名前はいつも妹が決めています。前に飼っていたミャーコもそうでした。
今野本家にはジョンともう一匹、合わせて2匹の猫が飼われています。もう一匹はジョンの兄弟猫で、ヨーコと命名されています。ジョンは雄猫、ヨーコは雌猫。言わずもがなですが、ジョンレノンとオノヨーコにちなんでいます。
よく世間で猫派か犬派かという話がありますが、僕は99%猫派です。犬は飼ったことがないので、飼ったら好きになれるのかもしれないという可能性を1%残しています。
猫の何が好きかというと、何よりもまず、あの自分勝手なところです。これはきっと犬派の人からすると、だから猫は好きじゃない、ということの大きな理由だと思いますけど。猫は勝手です。好き勝手に生きているように見えます。まあ、うちの猫たちは飼われているわけで、その時点で「好き勝手」ではないのかもしれませんが。でも、まあ、それでもその限られた環境の中で出来る限り好き勝手に生きているように見えます。好きなだけ寝て、好きなだけ食べて、好きなだけ甘えて、好きなだけ外を眺めて、好きなだけ散歩をして、好きなだけ狩りをして。そんなふうに見えます。
そんなふうに見えるのは、僕がそんなふうに見たいからなんでしょう。きっと違ったふうに見たいと思えば違ったふうに見えるんだと思います。
僕は猫に対して詩的なイメージを投影しているんです。もう結構昔の話になりますが、僕がまだパフォーマンスアートをバリバリやっていた頃(2006年頃)、あるパフォーマンスアーティストが「猫は詩的な動物だ」と言っているのを耳にしたんです。猫と詩。僕にとってはその組み合わせがとても腑に落ちました。猫の行動にはなんとなく行間があるように見えるんです。犬の行動にはそれはあまり感じられないのです。犬は詩的というよりも、感情的あるいは動的という言葉で修飾したほうが合っている感じがします。猫は詩的、あるいは静的という感じがします。
社会的にも犬と猫の位置づけは対照的です。犬はペットという立場だけでなく、警察犬や盲導犬、災害救助犬、そして様々な媒体のモデルなどとしての社会的地位を与えられています。対して猫の方はペットという立場以外には、モデルとしての立場くらいしかありません。やっぱりなんとなく犬のほうがしっかりした対場を得ている感じがします。
それもまあ当然かもしれません。犬は努力してきたのです。頑張って人間の言うことを聴いて、理解して、それに応えてきたのです。その涙ぐましい努力のすえに今の地位を獲得したのです。
猫はどうでしょうか。あいつらはまったくそういう努力をしてきませんでした。戦前戦中の混乱期も、戦後の高度経済成長の中でも、日本がバブルに浮かれている間も、デフレに苦しむ間も、ただただのんべんだらりと過ごしてきたのだと思います。
まあ、本当のところはわかりませんけれども。言葉が通じるわけではないし。ただ僕の目にはそんなふうに見えるし、そんなふうに想像することが出来るのです。そしてそういう猫が僕は好きなんです。
ジョンはもうどこかに行っちゃいました。どこかで何かやってるんでしょう。ただ寝てるのかな。